寛政八年岡田玉山画半紙本絵本『絵本頼光一代記』の翻刻

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正四位鎮守府将軍源頼光朝臣之像

正四位上鎮守府将軍源頼光朝臣と申奉るは、清和天皇の末裔にて、源満仲公の御子なり。御母は近江守源朝臣俊の女、天暦八年七月四誕生ましまし、御童名を文殊丸殿と申侍りし。十一歳にて御元服ありて、源頼光公と称し奉る。御父満仲公の御寵愛はさら也。御祖父経基王の御いとおしみふかくましまし。十七歳にて冷泉院の判官代となり給ひ、満仲公に代りて内裏守護の武士とてめでたき御大将なりけらし。

ここに渡辺の綱といふ者あり。是は源次充が子にして箕田の仕が孫なり。幼くして父母におくれ身なし子となりしを、母方の叔母の養育にて人となり。十二歳にて名を源次綱とぞ申ける。ここにまた綱のゆかりの人に源次敦といふあり。是は満仲の婿にて、世のもちひも重くありければ、かの叔母はるばると敦がもとへ綱をぐし行て、余儀なく頼みきこへければ、敦も心よくうけかひ、それより我が子となして、いとおしみける。ある時事のついでに満仲公の御舘にぐしてしかじかの者の子なり、あわれみ給へと申上げければ、さては忠臣箕田仕が孫なるかいかさまつらたましい、尋常のものにはあらじ。我に仕へと、父が名をもあらわせよと、仰ければ、敦も綱もこはありがたしとて、これより満仲公の御内に勤仕したりける。

頼光朝臣御父満仲公へ郎等一人扶持したまよしまふしたまひければやがて綱をぞたひてけれひととなるにしたがひ勇智人にこえて一世の功名あけてかぞふべからず頼光朝臣の御内にて四天王の随一とよばれしは此綱が事なりけり氏を渡辺ともふxしは箕田の姓は代々早世にて不吉なれば渡辺の叔母がもとにて成長したれば満仲公のたまひたる氏なりけり

天禄三年頼光朝臣上総守に任ぜられ八月十一日東国におもむき給ふ爰に卜部次官季国が子に季武といふ大力の功の者あり父が不興を受て伊豆の国に七年を暮しけるが、頼光朝臣任国に赴き給ふよしきき侍りていとうれしく本陣に参りけれと、垢つきたる衣裳をまとひ、むかしにかも、我姿を恥て笠かたむけてただずみたるを、門を守る番人見とかめて、盗人ななめとひしめきたり、渡辺何事にやと伺見れば、季国が子の季武なり、此季武か事は都にて、季国のくれくれたのみ聞えければ、やがて御大将の見参入奉り、しかしかと言上しければ大将甚だめで悦給ひ主従の御盃下し給ひ綱か下位にそ置けれは季武本(望)とけぬと悦ける

扨も頼光公上総国に着任し給ひ、国政道に的し、民の其化に帰すること流れに□水のごとし、時に天延三年十月廿二日の夜の夢に、信州碓井峠とおぼしき所に狩し給ひ、みづから猪のししを手取りにして、草分を二刀さし引揚て、見給ふに、四足なき猪なりけり、あやしとおもふ折節、衣冠正しき異人一人顕れ出、今なんぢが得たりし猪に腹心はあれとも、股肱はなし、我是をあたへんとて、四足を出し、頼光公に給ひ、われは当国諏訪のものなりといふかとおもへは、夢は覚たり、是そ頼光公股肱の良臣を得給わん瑞夢なりと、後にぞおもひ合されたり

信州碓井峠の片辺りに一人の童子あり、其先祖は橘氏にて武勇の家也しが、農民となりて三代を経たり、幼して父母を失ひ、十歳計より、力量人に勝、心剛にして、山野に出て鹿猿を打、飛鳥を射取、あるひは大石をまろはしましx、牧の馬に縄手綱をかけ、高山広野を駆巡り、木刀をもつて、大木を打切、昼夜武芸を励みければ、人呼て荒童子とそ申ける、十四歳のときみづから元服して、碓井荒太郎貞道と名のり、然るべき主君もあらば、給仕せはやとおもひけれとも、かかる幽谷を住家とすれば、いづくをさしてゆくべき方もおぼえされは、あんじ煩ひてぞゐたりけり

頼光朝臣天延四年八月任限充て上洛ましましけるか、足柄山にさしかかりて、峠に眺望し給へは、南は蒼海冥朦として、万点の帆風天に溯、北は重山峨峨としてみどりの色千嶺に聳たり、中天に晧晧たる雪は時しらぬ、富士の高根の我がほなるもたぐひなくて、しばらく詠めおわせしが、源次綱をめして彼処の谷合より五色の雲立登るは必定人傑のかくれ家あるへしいそぎ見て参るべしとの給ば、綱うけ給り馬引寄て打乗雲気をめあてに馳行けり

綱は仰を蒙て馳至りしが道もなき谷中七八丁行て見れば怪き萱家あり内に親子と見へて六十余りの老女と廿計と見ゆれといまだ童形成者と二人そゐたりけるやがてめしぐして大将の前に出たり大将其奇相を御覧し、汝が子なりやとたづね給へば、老女答て妾此山の頂に出て寐たり、夢中に赤龍来て妾に通ず、其時雷神おびたたしく鳴りて、果たして此児を孕生てより廿一年を経たり、其怪力万人も敵しがたし、希は君に奉て御命の料とせんといふ、大将喜び給ひ、坂田公時とぞめされける

靱負尉碓井貞光主馬佐酒田公時勘解由判官卜部季武瀧口内舎人渡部綱此四人を須弥の四天に表し、頼光公の輔翼の臣四天王と称しあまねく武威を振しかば、万国の士卒まねがざるに来りあつまり、竟に天下の名将と称せられ給ひけり

久我縄手にて狼籍の夜より、叔父姪南北に引わかれ、保輔は吉野の方、斎明は近江国高嶋郡に城をかまへて籠ける、藤原保昌討手を引率し、昼夜を分たず責ければ、斎明防方なく、夜下まぎれて落ゆきけるを、伏兵をいて討取首を梟木にかけ、都へ開陣したりけり

碓井貞光は私の宿願ありて、和州初瀬にまふでける、其帰るさき古川といふ処にて、保輔にゆきあひたり、されども互に面を見知らざれば、何事なく打過なばことあるまじきを保輔例の悪念発し、あつはれ良馬我物にせばやと、馬の尾本を丁ど握り、殿おりたまへ、聊申べき事ありといふ、貞光もしれ者とみてければ、子細を聞ていかにも計はんと、何事にやと馬より下を和殿に用事なし其馬に用あれと、飛乗りて懸出す、貞光保輔が太刀のおびとりを掴で、馬も人も動かさず、頼光の御内に碓井貞光といふ剛の者に下馬をさせたる、不敵者何処行ぞと、引おろせば、保輔心得引組だり貞光力勝ければ、取押縄を懸けり

保輔は貞光に生どられ、禁獄せられけるが、勇力を以て獄中をぬけ出また悪党をあつめて中納言顕光卿の御館堀河院へ夜中にみだれ入台盤所を捜し酒食を取出し思xに飲喰、元来当家は円融院御幸なりし御座の一段高くしつらひ錦の褥をもふけたる上に、保輔平座し手の者を左右に座せしめ、酒宴数刻に及びける、此よし頼光へ申達するものありければ、渡部卜部両人手勢引くし裏門より入切先をならべてなぎ立ければ、何かはもつて敵すべき、保輔も四天王と見てければ、太刀をくわへうつ伏しに臥て死たりける、残党残ず、討取首を取て検非違使の庁へ出しける

伴の別當とて希代の相人あり、永延二年の秋頼光朝臣を相して、五日の内に悦びあるべし、かならず武名を天下に施し末代の鑑とならせ給ふべしと申ければ、あな薄情別當の追従やいざいざ何故にかさやふの御悦の有らんや、五日の中とは余りに事遠からず、まことしからぬ申条やとさのする人もありしとかや、後にはおもひ合しける

斯て三四日を経たれども頼光公の御身におゐてさしたる御喜もなかりけるに、五日と申日しきりに眠りきさし少しまどろみたまひ、夢に端正の美女一人天下り我は養由基が女x花女といふものなり、我父百発百的の射芸をきわむといへども、つとふべき弟子なし、今大聖文殊の示現によつて、我が家に伝し水破兵破の矢、雷上動の弓を汝にあとふと見て、夢さめたり、頼光おとろき、傍を見給へば果たして弓矢を座右に置たり、頼光公喜び給ふ事かぎりなく、是ぞ別當が申つる喜事なれとて、さまざま引出物をぞ送られける、扨こそ頼光公養由が芸にたとり給はず、武名天下にふるいひしも理り成としられけり

爰に前亡将門が女遁世して、如若尼といふ有けり、父将門滅亡の時未胎内にありし、男子を世をしのびて、育あげ出家となしてんとて、よりよりすすめけれども、かの男子さらに聞入ず、十六歳の春みづから元服して、将軍太郎平良門と名のりあねの尼公にいとま乞して、何国ともなく立出を、尼公興さめやれまてしばしいふべき事ありとつづいて、はしり出たれども、はや行がたも見えざりけり、あな心憂や、出家せよとすすむるも、一日にても世を易く暮せん為なるに、あしく心得、いづくをあてにゆきぬらんとしたひかなしみける、連枝のなさけぞあわれ成

良門は此彼に三四年または四五年滞留し、軍勢をかりあつめ、今年永延三年三月、其勢七百余騎にて、多田新発意満慶が新田城に押よせ真先に馬を乗居、桓武天皇の正統平親王将門が公子将軍太郎平良門亡父教養のため義兵を揚、手合此城へ押寄たり、矢沓巻過てひきしぼり、弦をと高く切事はなつ、其矢大手の櫓の板を射ぬききて、後の柱一揺ゆつて立たるは身の毛もよだつて見えにける

良門の城の東平井峠の谷間よりからめ手へ押よせ、新田村に火をかけ焼攻にせんと企ける、城中にも是をさつし殺処??に兵を伏て今や??と待かけたり、良門は城中のもれたるもしらず相図の刻限になりぬとて在家に火をかけおめよさけんで攻上る城中の兵二百余騎の藪陰よりときをどつと作り火の下より切て出化年案内はよくしつたり爰にあらはれはしよにかくれさんざんに切てまわればよせ手ちりぢりになりてにげたりけり良門もこころはたけしといへども人なだれについて昆陽野まで引たりける

頼光朝臣は都に在番せられけるが多田に合戦ありと聞御いとま玉はり手勢引ぐし後詰に押よせ先陣酒田金時二陣卜部季武三陣碓井貞光おもひおもひに新手を入かへ息をもつがず攻戦良門は八尺あたりの鐵の棒を稲妻のごとくひらめかし大勢を薙倒し大将頼光と間ぢかくかけよせたり元来頼光矢継早の達者なればさしとり引詰射たまへば良門もならびなき早業の手きくにてあるひはくぐりまたは躍こへ鉄棒をもつて左右にはしひ間もあらば組んづものと手を尽してたたかひしは誠に希代のたたかひやと両陣なりをしつめて見物す

綱は日吉権現へ代参とて参籠せしが合戦のよしきこへければ手勢二十八騎もみにもんではせ来り三尺二寸の太刀真向にさしかざし一文字に切てかかる良門聲かけ御辺は誰渡部源次綱と名乗かけつ流しつ二時計おおかひしが太刀なげ捨てはずと組また上を下へともみ合ける元来渡部力まさりなれば終に組敷首打落し賊首良門討取たりと高聲によばわつて御方の陣に入にける

天延四年の春洛中の男女行方なく失ることあり日々に此事強大になり上さまの公達までも失給ひければ陰陽の博士播磨守安部清明をめして卜せしめ給ふに今度の妖孽は嵯峨天王の御宇に嫉妬の女活ながら鬼女となり宇治の川瀬に身を沈めし霊魂右衛門督忠文が霊鬼と夫婦の約をなし洛中を遊行して此夭をなせり是を鎮め玉はんには宇治橋の下に小祠を建橋姫の宮といわひ給ふべしと厳にこそ奏しける

かかる夭怪の時節なれば諸国の武士をめして禁門を守護せしめらる其中に頼光公は陽明門を守衛せらる爰に頼光公時々通ひ馴れ給ひし御方あり是は中納言維仲公の息女にて一条大宮なる処に住せ給此夜事ありて消息したため綱に仰てかの君の許へ遣し給ふ夜陰なれば相伝の霊剣髭切を帯せらる綱も忍びの御使なれば供人をもぐせずいそぎけるに一条戻り橋の辺りにて二十計の美女手に経をもちて唯ひとり南の方へゆきけるが綱に向ひわらはは五条わたりの者なりが夜更ておそろしくさむろふに送りてたびなんやと馴々敷申にて綱癖者ござめれおのれ逃すましと馬より飛をり易き御事此馬にめされ候へとて彼女を乗自馬の口をとりて南をさして急ける

堀川の東の詰を南へxx町へ今一二段ばかりになりてかの女さしもうるわしかりし姿おそろしき鬼と変じ我ゆく所は愛宕山そ夫迄送りきたるばしと綱が髻掴んてひつさけ乾の方へ飛行ける綱は少しも騒ず件の髭切さつとぬき空さまに鬼の手をふつと切其身は北野の社廻廊の家根の上におちたりける鬼は手をきられながら愛宕山の方へ光り行やがて廻廊をとびおり髻に付たる鬼の手を見るにその黒き事かぎりなく白き毛ひまなく生しけりしろかねの針をうえたることくおそろしき事限りなし

頼光朝臣綱が鬼の手を切しこと不思議の事におほしてまた晴明を招きたづね給ふに是こそ先に申しつる宇治橋の鬼女なり渡部が勇名剣の霊威にてかかる夭怪を仕とめたる事希代の珍事なりとてなを綱を招きて七ヶ日の(物忌)をおしへ仁王経を読誦有へしと申ければ綱はかたの如くおこなひける六日と申夜已前の鬼綱が叔母渡部に住る老女と化しきたりさまさまに綱をすかしついにかの手をとりかへし破風を蹴やぶり虚空にひかり失にけりそれより渡辺党の屋作りには破風をたてず四門屋にするとかや此鬼の手を斬しより髭切の宝剣を鬼丸と号給ひけり

一説に曰ある夜頼光朝臣の御館に群臣宴す時に羅生門に妖鬼住んで人を害すといふものあり渡部綱あへて信ぜず彼鬼ありといふ者色をかへて某君の御前にて偽を申とおほし候か今宵にてもかしこに御出ありてその疑をはらし給へといふ綱も気色ばみて扨は某かしこへ得参ましとおもひ左申候か其儀ならは今宵行向て真偽を糺申べしと大将の御前にて印の札を取て緋おどしの鎧を着しおなし毛の甲を着髭切の宝剣を申給はつて只一騎東寺羅生門へとはせゆきけり

綱は馬を乗放し件の札を檀上に立てたち帰らんとせし処に羅生門の天井よりながき手をさし出し綱がかぶとを(掴)うしろへ引綱些とも騒がす髭切を抜鬼の手を切おとしぬ扨七ヶ日の斎にこれもまた渡部の叔母と化してかの手を取かへし破風を蹴やぶり飛さりぬ

〇右の二章何れか真何か偽なることをしらず渡辺たとへ愚なりといふども二度おなし計略にてたばかられん物先の説じつならば此説うそ成へし此説まことならは前の説いつわりなるべし後の君子の是正をまつのみ

頼光公風の心地とて打臥たまひけるが日を経て大熱もゆるがごとく自汗湧に似たり甚なやみたまひけれは四天王をはしめ近習の面〳〵色を失ひて看病すある夜少し熱も醒てまどろみたまひければ看病の人々もしばらく次の間にて休みけり時に頼光の枕上にて「我せこが来べき宵なりささかにのとたからかに吟ずる者あり頼光目さめて見給ふに一人の僧忽然とあらわれ千筋の縄をとりて頼光朝臣をからめんとす頼光公がはと起上傍にありける膝丸をぬきうちに丁ど切るきられて化生はかきけすことく失にけり

宿直の人々四天王藤原保昌等かけつけ見るに頼光朝臣の太刀付の跡におびただしく血こぼれたりさらば此血をしたふて癖者の在所をもとめんとてんでに松明をてらしながれたる血の跡を追ふてゆくに北野の社の後に大きなる塚ある処にてとどまりぬ扨大石をなげのけ〳〵七八丈底にいたりて其わたり一丈あまり蛛の形そあらわれたり五人の兵のくまでにかけてひき出しずだずだに斬て鉄の串につらぬき河原に立てぞ置れける此保昌は頼光公の弟頼親公の母方の叔父なり

藤原保昌が弟に右京亮保輔といふもの有また右兵衛尉高時といふ者有是は保昌か姪なり此両人性得奸凶にして洛中及び在々を横行し人を殺し財宝をうばひとり傍若無人のくせものなり保昌是をうとみ去ぬる天禄のはじめ禁庭に申て勘当して捨てたりけるある夜かの保輔保昌の只一人頼光朝臣の舘より帰るをうかがひ討てうらみをはらさんとて跡にそふて歩みたり元来保昌勇猛世にこへ形貌尋常ならざるに須更も油断の色見へざればさしもの保輔心おくして討事を得ず

藤原季孝大江匡衡といふ人八幡宮に詣ふで夜に入て久我縄手を帰りしにかの保輔斎明手の者引具し道をふさぎて衣類雑具を取んとす青侍ども刀を抜てたたかふたり匡衡の雑色に平延尚といふ功のもの賊首保輔とわたり合しが延尚ちから勝にて保輔を組しきすでに討べかりしを高明かけつけ両人が中に延尚を討とめける季孝も保輔に討れ匡衡はかろふしてのがれ玉ヘリ

永延八月七日天かきくもり旋風夥しく吹て洛中洛外の屋をくづし宝闕の宮殿諸門悉く破壊におよび棟梁を吹飛すこと木の葉のちるがことく是にうたれてxをかふむりあるひは死におよぶものそのかずをしらずあさましかりける有様なりされば緊庭より勅使を諸社諸山へ立られ奉幣神楽を奏し神慮をなだめたてまつる

中にも日吉大宮の神人等神楽奏しける時神霊乙女の袖に詫してのたまわく抑今度の災は紛神魑魅の祟りにあらず西山に妖鬼ありて妖術を行ふ即かれがしわざなり後におもひ合す事あるべし次に源頼光鎮守府の任のことしばらくさしおくへし遠く去は妖鬼いよいよ禍をなすべしと告終りてうつ伏にたをれて物怪は覚たりける此旨つぶさに奏聞したりければ摂政兼家公手を打玉ひ頼光奥州任の事我胸中にあつていまだ口外にいださざる処なりかかる神たくさらにうたがふ事にあらすとて頼光の補任のさたは止にけり

同四年の春丹波の目代藤原保友が許より早馬をまゐらせ住進し候へは当国大江山に異類異形の鬼ともあつまり城を構へて隣国当国の人民をうはひとり候事其数をしらず首領酒顛と申者は丹後国千丈嶽と申処の岩窟に住神変自在にして宙をかけり形を隠し風雨を起し刃剣をからずして人を殺しその妖術人間の及ぶ処にあらずはやはや討手下し給わらずんばゆゆしき大事に候わんとぞ申ける摂政のたまひけるはこれぞ日吉の神たくし玉ひし処なれとて頼光をめさえrて退治すべきよし勅定ありければ頼光かしこより退出ある

藤原保昌は頼光朝臣の親族なればともに力を合誅伐したきよし奏しければ則勅許なし給ふ両人大きに喜び譜代恩顧の家人千二百余騎正暦元年三月丹波国へ発向有無根坂といふ処にいたり頼光俄にここち例ならず甚なやましかりければまた申刻に旅館を点じ宿し給ふ其夜の夢神人枕上に現れ告の玉く我は八幡大神の御使なり今度千丈嶽妖鬼退治の事多勢を以て向はば勝利なし自身単騎にて向討べし路の同じは住吉明神か案内を添らるべしと詫玉ひて夢は覚にけり頼光奇異のおもひをなし病苦甚しく出陣なりがたしと披露し子息頼国に軍勢そへて大江山向わせ其身は四天王ならひに保昌をくして千丈嶽へと向われける

頼光公の長男下野判官頼国は目代保友と軍勢を合せ大江山へ押よせ四方をかこんで息をもつかせず責たりける此城尋常の城に異にして石を畳て塀となし岩を塞て門となす殺処によつて築たればいかにせむれど落べきよふはなかりけるされどもよせて少しも屈せず短兵急に責のぼれば城中の異賊大木大石を雨のごとくになげ下しけれは是に打れ死するもの数をしらす城を見揚て守けり

頼光朝臣は主従六人山伏の姿に似せて千丈嶽へといそぎ玉ふ山中にとある祠の有ければ立寄拝し玉ふに御燈を奉る老翁社頭より出来れば季武近くよりて当社はいあかなる神をまつり奉る御社に候ぞとたつねければかの翁いふ当国一宮籠宮権現とて住吉明神御同体にましますとすげなくこたへて油瓶取てはしり出るを頼光おしとめ当社明神へ一紙の願書を捧たてまつりたきよし申給へは翁さらははやく認たまへ此山奥に鬼の住て候へは申刻過ては鬼の為に命を失ひてんはやとく〳〵と申ければ頼光願書こまかにしたため翁にわたし給へば神殿におさめ奉いそがわしくはしり出てふもとをさしてかへりけり

頼光主従山ふかく入玉ふに飛脚とおぼしきあやしき男に道の案内をたづねつつかの男のあとにつきてぞあゆみける保昌問ていふ和とのはいづくより何処へ渡り候てかく道を急き玉ふぞかの男答て是は丹波の大江山より事の急あつて千丈嶽といふ処へまかる者なりといふ六人目を見合てすはや夢中の示現是なりと頼もしくて猶もその男をすかしこしらへて終に案内させて千丈嶽にそ着玉ふ抑此岩窟と申は峩々たる岩壁を上る事三里計絶頂にいたりて亘二町ばかりの穴あり此内左右みな自然の岩を窟て道となし日月のひかりも見えす十余町にしてひとつの石門にいたりぬ則酒顛が住家これなり

此酒顛といふは越後国何某が妻孕事十六月にして産にのぞんでくるしx死す胎内よりはい出し児なり誕生の日より歯生ものよくいい走りありく事五六歳の児のことし父是を恐れて幽谷に捨されども狐狼の災もなく生長して身の丈八尺幻術を行ひ力あくまで強く酒を好事法xたり酔時は通力を失ひ顛動悶絶すこれによつて酒顛童子と呼べり頼光主従六人は首尾よく童子の傍ちかくすすみよりて見るに首は禿にて振分髪の間より日月のごとき眼光渡り面の色朱のことく眉はうるしをぬりたる如く実に欲界六天の魔王もかくやとおそろしき

酒顛は六人の山伏と酒宴をなし興に乗じて沉酔し前後も知ず臥したりけりすはや時こそと人々太刀抜持立かかれば次の間にありし眷属ども一度にどつとはせ来るを公時早くも蔀一間ふみはなし楯につゐて廿余人の癖者をゑい聲出しておし出すそのひまに頼光とびかかつて酒顛が心元を二刀さし通し酒てんおどろきはねかへさんとする処を保昌貞光季武綱手足をおさへてうごかさず首を打落し鬼丸の霊剣につらぬきさし上たりさて四天王の人々鋒さきをならべて切てまわれば眷属どものこらず討れぬれば直に岩窟を出玉ふ

大江山の城には今にささへてゐたりけるに酒顛が首をほこさきにつらぬき真さきにおしたてときの聲を作りかけかづきつれてぞ責たりければ城中これを見て忽ちからをおとしたたかふべき気ぜひもなく後の山よりぬけ〳〵に落ゆきて此城こらへつべふもなかりける大将今は是までとてのこる賊徒四十余人を左右に引ぐし大手の城戸をさつとひらきおめきさけんて切ていて討死をこそしたりける寄せ勝どき三度あげさせ討とる首どもとりもたせ都へかひじんしたまひしはゆたしかりけるありさまなり

今度大江山妖賊退治の事叡感あさからず叙位除目行る左馬頭頼光朝臣は肥前守に兼任せられ権太夫保昌は丹後守に補せられ四天王のともからもおの〳〵大庄二三ヶ庄づつあて行るかかりしほどに吉日をゑらひ首途ありて頼光は九州へくだり玉ひ保昌は丹後へこそはおもむきける

市原野より乾に当てひとつの岩窟ありかしこに鬼同丸といふ狡童あり比叡山大師坊といへる人の児なりしが天狗道の術をまなび経論を焼捨僧坊打破り仏法を破滅せんと企けるほどに山をおひ下され此いはやに籠り方一丈の石上に座し山々の大小の天狗をかたらひ昼夜仏法破滅のはかりことをめぐらしける

頼光朝臣の御舎弟頼信朝臣かの鬼同丸を生取中門の傍なる厩にからめ付てぞ置れける頼光御覧じ縄ゆるくてはかなふまじとの給ひしほどに鉄の鎖にて強くいましめたりければ鬼同丸頼光のはからひなりと深くうらみしたたかなる鎖を引切頼光朝臣の寐処の天井に忍び入寐入玉ふをまちゐたり頼光元来気はやなる大将なりければxがある此屋うへにくせものありさがしもとめよと下知したまへば四天王の人々我も〳〵とひしめきければ鬼同丸たよりあしかりけりとおもひぬけ出てにけたりけり

頼光四天王をめしつれて鞍馬に詣てたまはんと市原野を通り給ふに道ばたに死たる牛のありけりが時〳〵うこく様に見へければ渡辺あやしくおもひて矢打つがひ丁ど放にかの牛むく〳〵と起上り腹の中より鬼同丸あらわれ出たやすくも見出されしこそくちおしけれと頼光目がけ飛かかる頼光朝臣すこしもさわがす太刀抜はなしなぎ玉へは首は愛なく落にけり

江州伊吹山にまたも酒顛童子といふ者ありて近国をおひやかすよし度々天聴を驚し奉れば此度も頼光公に勅して伐しめ玉ふ頼光勅に応じ軍勢引具し伊吹山に押よせはるかに山上を見あげたれば乱株逆茂木間なく引かけ坂中にx楯かいて其陰に射手をならべ弓筈をそろえてさんざんに射る寄手何かは由余すべきおめきさけんで責のぼれば賊徒も爰をやぶられじと命をかぎりにささへたるはいづれひまなく見へにけり

酒田公時はからめてより夜中におしよせ皆々馬よりおりてかち立になり自から馬の口をとり悪所難所もきらははにてゑい聲出してのぼりけるが少し平なる処にて馬に打のりときをいつと作て切てかくれは敵とこより夜中によすべしとはおもひよらざれは防へき兵一人もなく雑人ばら篝のかげにて酒呑兵糧つかひなどして並居たるがときの聲におどろきあるひは盃を持ながら逃るもありまたx子をかへてはしるもあり見ぐるしかりけるありさまなり

大手の大軍同時にときを作て責のぼれば前後を敵にかこまれ戦んとするものなくあるひは降人に出また生取となりたまたま戦者あれは忽白刃の下に命をおとし暫時が内に賊徒平定しければ大将城中に入て見廻り給ふに十七八より廿四五歳迄の美女廿余人そなきゐたりやがて大将の御前につれ来たりて賊等の妻女にやとたづねたまへば我われは皆人の妻子にてさむろふを賊徒いつわつて酒顛童子といたづらなる名を云ふらし情なくうばひとられてむくつけき男の妻に妾よと面白からぬ酒宴に日を暮つらき枕に夜を明し侍るよし申上ければやがてそれ〳〵の処〳〵へかへし玉ひぬ

生者必滅のならひ今にはじめず驚べき事ならねど頼光朝臣治安元年七月廿四日享年六十八歳にて逝去し玉ひければ四天王をはしめ譜代の家臣外様郎徒暗夜に燈火を失しことく十方にくれてゐたりけるなくなく満仲朝臣の墳墓にならへ廟所を築き四天王のともがら三月か間毎日廟参おこたる事なく如在の礼を尽くしける

酒田公時は頼光公在世の時より勇者の後なきも本意なし妻をもぐせよと度々仰せけれども公ときかつて承引せず今度三月満参の日廟所の前にて申けるは我愚なれども君に仕へて一事も不忠存せず主従の契り朋友みちなみ心のたけは尽したり御暇申とて所領財宝をかへりみず私宅へもかへらず直に別て出ゆきけり綱季武貞光もこはけしからす酒田殿と聲〳〵にととむれどあへて耳にもきき入ず伊豆国足柄山に入て其後をしらずなりにけり季武は治安三年七十三歳にて身まかり一子武俊は頼信朝臣に仕ける貞光は病をもなく家に終綱は一子源次久を頼国朝臣に仕官させ其身は摂州に隠居して五年の後七十三にて身まかりぬ

頼光公桝花女より相伝の水破兵破の矢雷上動の弓は嫡子頼国朝臣に相伝して父の家業をつぎゆゆしき武将とあをがれたまふ摂津兵庫の浦に新宅をいとなみ梁りにほりものしたるきに画がき善尽し美つくしいらかをならへて建られたりげにも源家の繁栄久しき根ざしなりとめでたかりし事どもなり

源朝臣頼光公之嫡男上野守源頼国朝臣

画工 玉山 (印)(印)

寛政八丙辰正月

京都書肆 御幸町御池下ル

浪華書肆 心斎橋北久太郎町 河内屋喜兵衛

同 南久宝寺町 勝尾屋六兵衛